【私の個人主義】ブレない自分軸を身につける|夏目漱石

他人を気にしても意味ないんです。

他人を気にするのは、他人になにかを期待しているからです。

こういってみてください。

夏目漱石

いくら書物を読んでも腹の足にはならないのだと諦めました。

同時に何のために書物を読むのか自分でもその意味が解らなくなって来ました。

「他人に期待する意味はない」と夏目漱石は言っているんです。

続けて、

夏目漱石

私は始めて文学とはどんなものであるか、その概念を根本的に自力で作り上げるよりほかに、私を救う途はないのだと悟った。

諸君を相手に講演をするのもやはりその力のお蔭かも知れません。

ということで、日本人なら誰でもしっている。夏目漱石「私の個人主義」について、触れていきます。

この動画では、ブレない自分軸を身につける方法を紹介します。

それでは、さっそく夏目漱石についてみていきましょう。

夏目漱石の無明と生涯

夏目漱石と聞くと「国語」の授業で「吾輩はにゃんこ」である。

間違えました。「吾輩は、猫である(1905年)」や、「坊っちゃん(1906年)」、「それから」(1909年)、「門」(1910年)「こころ(1914年)」などがあります。

晩年になればなるほど、孤独や罪の意識、人間関係の複雑さを描いていますが、

今回ご紹介する「私の個人主義」は、夏目漱石が、1914年に東京帝国大学で行った講演をもとにしたエッセイです。

そのときに、晩年の作品を彼はこうやって言っています。

夏目漱石

神経衰弱に罹りました。最後に下らない創作などを雑誌に載せなければならない仕儀に陥りました。いろいろの事情で、私は私の企てた事業を中止しました。私の著わした文学論はその記念というよりもむしろ失敗の亡骸です。

しかも畸形児の亡骸です。あるいは立派に建設されないうちに地震で倒された未成市街の廃墟のようなものである。

このように、漱石の思想が日本の文化や社会に深く根付いている作品です。

つまり、自分が体験したイギリス留学での孤独や不安、そして帰国後の心の葛藤を通じて、真の「個人」というものがいかに重要であるかを実感しています。

彼は、個人主義とは単に自己中心的なものではなく、自らの内面と向き合い、自分の価値観や信念を確立することの重要性を説いています。

夏目漱石

私はこの世に生れた以上何かしなければならん、といって何をして好いか少しも見当がつかない。

私はちょうど霧の中に閉じ込められた孤独の人間のように立ち竦んでしまったのです。

そうしてどこからか一筋の日光が射して来ないかしらんという希望よりも、こちらから探照灯を用いてたった一条で好いから先まで明らかに見たいという気がしました。

ところが不幸にしてどちらの方角を眺めてもぼんやりしているのです。ぼうっとしているのです。

あたかも嚢の中に詰められて出る事のできない人のような気持がするのです。

私は私の手にただ一本の錐さえあればどこか一カ所突き破って見せるのだがと、焦燥り抜ぬいたのですが、あいにくその錐は人から与えられる事もなく、また自分で発見する訳にも行かず、ただ腹の底ではこの先自分はどうなるだろうと思って、人知れず陰欝な日を送ったのであります。

夏目漱石といえば、現代の小説にも通ず、直接的な表現ではなく、間接的表現ですよね。

この間接的技法が現代の小説でも、用いられています。

けど、思ったことははっきり言えよ。

とも、思うわけです。

ということで、小生なりに夏目漱石の「私の個人主義」について深く触れていきます。

他人本位が破滅する理由

まずは、夏目漱石が述べている「他人本位が破滅する理由」について触れていきます。

夏目漱石

他を妨害する、権力を用いようとすると、濫用に流れる、金力を使おうとすれば、社会の腐敗をもたらす。ずいぶん危険な現象を呈するに至るのです。

このように、権力・金力で束縛をすればするほど、社会は腐敗し危険に陥るとのべています。

そのおもな理由は三つです。

①自分さえの「権力」
②お金さえの「金力」
③いまさえの「自我」

です。

一つずつ漱石の言葉と合わせて説明していきます。

①自分さえの「権力」

一つ目は、自分さえの「権力」についてこのように述べています。

夏目漱石

第一番に挙げなければならないのは権力であります。

自分の個性を他人の頭の上に無理矢理に圧しつける道具なのです。道具だと断然云い切ってわるければ、そんな道具に使い得る利器なのです。

最近のニュースを見ても、自分さえの権力を主張するものはいますよね。

そして、漱石はさらにこのように述べています。

夏目漱石

私は衣食のために奔走する義務がさっそく起りました。

はい。漱石は、裕福な家庭でなかったので、そのような体験からこのように言っているんですね。

そして、いまは国家だけでなく世界が、目まぐるしく、権力で揺れ動いていますよね。

2024年のイギリスと日本のエンペラーのやりとり。

2024年アメリカ選挙の権力のやりとり。

自分さえで、「無理やり済まそうとするから破滅するのだ」と漱石は時代を超えて述べています。

②お金さえの「金力」

二つ目は、「お金にものを言わす」です。

夏目漱石

権力に次ぐものは金力です。

権力と金力とは自分の個性を貧乏人より余計に、他人の上に押し被せるとか、または他人をその方面に誘き寄せるとかいう点において、大変便宜な道具だと云わなければなりません。

人間の精神を買う手段に使用できるのだから恐ろしいではありませんか。

その人の魂を堕落させる道具とするのです。

これも、漱石自身が体験したことをこのように述べています。

夏目漱石

金が足りないので、私立学校も一軒稼ぎました。

最後に下らない創作などを雑誌にせなければならない仕儀しぎおちいりました。

夏目漱石は、金銭的に困っていたため、私立学校の教師や書籍にて働いて収入を得ました。

お金さえで行動し、うつ病になった漱石は、「お金にものを言わす」自分の過ちを述べているわけです。

現在も、「お金さえでものをいわす」ところは、資本主義で生きている我々に少なからず刺さる言葉です。

お金さえで「無理やり済まそうとするから破滅するのだ」と漱石は時代を超えて述べています。

③いまさえの「自我」

三つ目は、いまさえの自我です。

これは、書籍にあげていませんが、エッセイの文章から読み解くとわかってきます。

例えば、漱石はこのように言葉です。

夏目漱石

自我とか自覚とか唱えていくら自分の勝手な真似をしても構わないという符徴に使うようですが、その中にははなはだ怪しいのがたくさんあります。

彼らは自分の自我をあくまで尊重するような事を云いながら、他人の自我に至っては毫も認めていないのです。

つまり、漱石はいまさえの自分勝手な発言をして、それを自分の意見だというのはあまりにも軽率であると述べています。

例えば、

「いまさえ」で、営業利益を出すための口実。

「いまさえ」で、大衆に公約し、意見を主張し、当選する政治家、

「いまさえ」で、対抗馬を暗〇しようとする権力者

「いまさえ」で、報道するメディア

夏目漱石

この三つのものは、あなたがたが将来において最も接近しやすいものであるから、あなたがたはどうしても人格のある立派な人間になっておかなくてはいけないだろうと思います。

いまさえで「無理やり済まそうとするから破滅するのだ」と漱石は時代を超えて述べています。

現代においても、「自分さえ」「お金さえ」「いまさえ」で行動する自我というものは色濃くあります。

では、どうすればいいのか。

漱石の個人主義について、触れていきます。

「私の個人主義」

ここで、この本のタイトル「私の個人主義」に行きつきます。

夏目漱石

人間がそう一つ主義に片づけられるものではあるまいとは思いますが、説明のためですから、ここにはやむをえず、主義という文字の下にいろいろの事を申し上げます。

夏目漱石

事実私共は国家主義でもあり、世界主義でもあり、同時にまた個人主義でもあるのであります。

夏目漱石

私はそれから文芸に対する自己の立脚地を堅めるため、堅めるというより新らしく建設するために、文芸とは全く縁のない書物を読み始めました。

一口でいうと、自己本位という四字をようやく考えて、その自己本位を立証するために、科学的な研究やら哲学的の思索に耽り出したのであります。

この破滅原則から、繁栄原則にするための心得をご紹介します。

①自分さえ・お金さえ→「中庸」

自分とお金については、漱石は、以下のように中庸が重要と述べています。

夏目漱石

第一に自己の個性の発展を仕遂げようと思うならば、同時に他人の個性も尊重しなければならないという事。

自分さえとなったときは、自己と他人の個性を尊重する。

夏目漱石

第二に自己の所有している権力を使用しようと思うならば、それに附随している義務というものを心得なければならないという事。

お金さえとなったときは、義務と権力の中庸が重要です。

さらに、お金についてはこのように述べています。

夏目漱石

相当の徳義心をもって、それを道義上害のないように使いこなすよりほかに、人心の腐敗を防ぐ道はなくなってしまうのです。

私は金力には必ず責任がついて廻らなければならないといいたくなります。

夏目漱石

その権利と引き離す事のできない義務も尽さなければ、教師の職を勤め終せる訳に行きますまい。

お金さえ

夏目漱石

自分とぴたりと合った仕事を発見するまで邁進しなければ一生の不幸であると。

つまり、お金も善悪ではなく、目に見える目の前の善き行動をする個人に使えば、自然と循環するものであり、

自分も他人も、幸福になれる仕事をみつけることで、人に役立つ紙幣の循環もすると述べています。

②いまさえ→「私の個人主義」

最後に、自分さえ・お金さえ・いまさえについて、このように漱石は述べています。

夏目漱石

私が独立した一個の日本人であって、けっして英国人の奴婢どひでない以上はこれくらいの見識は国民の一員としてそなえていなければならない上に、世界に共通な正直という徳義を重んずる点から見ても、私は私の意見を曲げてはならないのです。

つまり、自分の個性を発展するなら、客観的に他人の個性も尊重し、物事を見ることが重要になってきます。

2024年のイギリスと日本のエンペラーのやりとり。
→歴史を紐解くと、800年を周期に、東洋と西洋の入れ替わりが行われている。DNAのように右脳(直観・東洋)と左脳(ロジック・西洋)になっています。

2024年アメリカ選挙の権力のやりとり。
→二つの関係性から三つ目の関係性がわかる。AtoBの弁証論は、昔から行われている。いまに始まったことでないわけです。

そして、その根本的解決方法を、夏目漱石は以下のように述べています。

夏目漱石

今までは全く他人本位で、根のないうきぐさのように、そこいらをでたらめにただよっていたから、駄目だめであったという事にようやく気がついたのです。

他人本位でなく「私の個人主義」構築することが重要です。

なぜなら、

夏目漱石

国家が危くなれば個人の自由が狭められ、国家が泰平の時には個人の自由が膨脹して来る、それが当然の話です。

わたしたちひとりずつは、小さな生き物ですが、その個人が大きくなれば、家族となり、地域となり、国となり、世界となり、宇宙となるからです。

つまり、私たち一人ずつが、小生(星)というわけです。

そうやって、思考し、行動すれば、「私の個人主義」が構築できると述べたわけです。

夏目漱石

私が独立した一個の日本人であって、けっして英国人の奴婢どひでない以上はこれくらいの見識は国民の一員としてそなえていなければならない上に、世界に共通な正直という徳義を重んずる点から見ても、私は私の意見を曲げてはならないのです。

まとめ:繁栄原則

漱石が亡き現在

日本は、どうなったでしょう。

二度の戦争をしました。

戦後に、水も食料もままならず、物質的繁栄はなくなりました。

憂鬱的な漱石の晩年「こころ」や「羅生門」などの時代です。

戦後、日本は西洋のロジックを取り入れ、物質的に繁栄していきます。

物質的に、繁栄しましたが、私たちの「こころ」はどうだったでしょう?

戦後より、明らかに生活水準は高いはずなのに、他人と比べ、「自分さえ、お金さえ、いまさえ」

このように、現代も夏目漱石の述べている「破滅原則」になっていませんか?

世界大戦まで発展していませんが、現代の個人や企業、国は、「お金さえ、いまさえ、自分さえ」で利益、利益を出そうとしている一面があります。

では、この中庸はどのようにみればいいのでしょうか。

夏目漱石

幸福と安心とをもたらすかというと、あなた方のもって生れた個性がそこにぶつかって始めて腰がすわるからでしょう。そうしてそこに尻を落ちつけてだんだん前の方へ進んで行くとその個性がますます発展して行くからでしょう。ああここにおれの安住の地位があったと、あなた方の仕事とあなたがたの個性が、しっくり合った時に、始めて云い得るのでしょう。

夏目漱石

あらゆる芸術の士は、人の世をのどかにし、人の心を豊かにするがゆえに尊い。

そうなんです。

私たちが、歴史的に繁栄するときは「感謝」や「豊さ」を味わっているときです。

戦後の人はきっと、いまの世界を見たらこう思うはずです。

「こんなに食料があって、桃源郷だね。ああ、生きていることに感謝、感謝です」

「こころ」なしに、繁栄はありえないのです。

そんな名著が夏目漱石の「私の個人主義」でした。

以上最後までご視聴いただきありがとうございます。

私の個人主義として「インプット」とするために、乱雑ですが、夏目漱石の「私の個人主義」の全文の動画も作成しました。

興味が生まれた方は、ぜひどうぞ。

以上、最後までみていただき感謝感謝です。

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